輝く海外女性拳士
Suzuko Okamura Hamasaki  -アメリカ編-
京都と浜崎鈴子   No.1 

空手道を始めたきっかけは何ですか?

父が京都に空手道場を開いていたため、小学校1年の春に“ごく自然に”入門しました。道場の名前は「拳心館」です。その拳心館には4歳年上の兄が、やはり6の時に入門していました。初等教育が始まる6歳になったら、稽古事を始めさせるというのが両親の教育方針だったようです。その稽古事とは、勿論、私の家では空手道でした。後になってから、なぜ私に空手を始めさせたのか、と両親に聞いたことがありますが、その時に答えは「鈴子がやりたいと言ったから」でしたが、実の所、私はそう言った覚えが全くありません。声が小さいと学校の先生に言われたことも理由の一つだと母が言っていましたが、結局のところ、両親共、末娘(私には空手の“か”もしていない6歳年上の姉がいます)が、武道に向いていると判断していたのかもしれません。

さて、いよいよ入門することになった1961年(昭和36年)5月には、成人の女性が2人一緒に入りました。当時の空手のイメージは“力道山”のカラテチョップか、柔道一直線に出て来るカラテ使いの悪者、桧垣源之助の悪玉イメージしかありませんでした。ですから、小学校の友達に空手を習っていることをあまり言いたくなかったのです。言えば必ず、「すごいもん習ってるんやね」とか「ちょっと、手見せて〜」とか言われたからです。なぜ空手なんかやっているんだろう、と幼心に自問自答したことを覚えています。

それが、なぜここまで来られたのかと考えると、やはり師であった父の真摯な姿があったからだと思います。父は率先垂範と元とし、言葉ではなく行動で範を示していました。本当に純粋な心を持った、いつも一生懸命な良い師であったと、指導する立場になった今、なおさら感謝しています。私も今、週2回の指導をしていますが、行くのが億劫になった時は、父の言葉を思い出します。「目の前で亡くなっていった戦友のことを思うと、辛いことは何もない」と。若い命をお国のために捧げた方々の分まで精一杯生きなければいけないという父の姿勢は、私の生きるバックボーンになっています。善行を重ね、人と社会のために生きる。日本の空手や武道に限らず、これは洋の東西を越えた永久の美徳であることを次世代に伝えたく思います。

 好きな言葉は?

精力善用、自他共栄」−これは近代武道の創始者である嘉納治五郎先生の言葉です。自分の持っているエネルギーを(社会に役立つ)良い方向に使い、自分と他人とがお互いに繁栄するように勤めるべきである、という意味ですが、このコンセプトはアメリカの青少年スポーツの精神とも共通していて、大変国際的な概念を含んでいると思います。

嘉納治五郎先生は柔道を世界に広めた偉大な明治の武道教育家として知られています。結果としては、確かにそうであるのですが、私は、嘉納治五郎の真の功績は、柔道を世界に広めたということではなく、日本の柔術を西洋の体育理論を元に再編纂し、西洋体育と同じレベル、即ち人材養育のための教育手段にしたことだと思います。彼は、博識であり、教育者であり、かつ柔術家でした。また、明治の欧米文化が湯水の如く日本に流れ込んで来た時勢の中で育ちました。彼の中に、その欧米文化と共に入って来た西洋の教育理論がどのように映ったか。「国家社会に役立つ人材養成のための身体活動」−柔術を柔道と変身させ、国家社会の人材作りをしよう、と考えたのは、並々ならぬ才能と信念の持ち主であったと確信します。100年以上経った今の日本に、嘉納治五郎が理想とした「精力善用、自他共栄」を、蘇らせることを願います。

 愛読書やお勧めの本をお知らせください。

山本周五郎著「武道小説集」。学生時代は探偵小説(江戸川乱歩やアルセーヌ・ルパン)を読みあさっていました。司馬遼太郎も好きです。競技現役時代は「竜馬がいく」など、時代小説をよく読んだものです。武士のかたくなな誠実さが心に触れ、日本人の魂はこれぞや!と思っていましたし、今でもそう思っています。ただ、その魂を持っている日本人が少なくなってきたことは残念ですが。

お勧めの本は、新渡戸稲造の「武士道」でしょうか。これは数年前にトム・クルーズが作った”The Last Samurai”で再度脚光を浴びたようですが、確かに、この著は武士という社会上層階級者が江戸期に形成していった日本の美意識がまだ生きていた明治時代の傑作であると思います。新渡戸稲造も嘉納治五郎と同じで、日本文化を世界に広めるという目的でこれを書いたわけではなく、逆に欧米社会の道徳教育に匹敵するものを探したら、たまたま武士道であったということで、書いたようです

 空手道以外にどんなことに興味がありましたか。

中学生の頃から英語が大好きで、大学も英文科に進み、卒業後は母校の京都女子高校で英語を教えていました。当時の日本の(今でもかもしれませんが)英語教育は文法と翻訳が主で、文の書き換え(例えば、2つの文を関係代名詞=whichthatなどを使って1文に書き換える)なども大学受験英語に必要なため、盛んに行なわれていました。しかし、アメリカやイギリスから留学生が来ると、ペラペラとカッコよくコミュニケーションできる英語の先生がいない!(もちろん、自分も含めて。)このまま、英語を聞けない、話せない先生で終わるのかと思うと、ぞっとしました。いつか、きっと英語留学を果たしたい、と思い始めたのが、英語教師時代―24歳の頃でした。結局、実行したのは28歳になった時でしたが、これは、25歳から3年間は空手の現役選手として空手に勤しんでいたからです。


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