空手道の魅力とは?

先ず、何と言っても頑丈な体を作るのに役立ちます。特に、空手は上半身と下半身を均等に使うので、体全体の筋力がバランスよく身に付きます。それに、突く時も腰を落とすことが多いので、下半身の安定がよくなるし、受ける時は速く身を引く必要があるので、反射神経を養うのにも最適です。また、頭部を的に蹴る上段蹴りを練習している間に、体の柔軟性が養成されます。数分間の組手では、休む暇なく体を動かし続けるので持久力が付くし、方向転換の多い型練習をするうちに体のバランスを保てるようになります。そして、格闘技の性格上、当てた時に力がなければならないので、パワーそのものも身に付くことになる。ここに挙げただけでも、バランス、安定感、反射力、柔軟性、持久力、パワーアップと、強くしなやかな体を作るには、空手は申し分ないスポーツだと言えるでしょう。

次に、護身に役立ちます。特に、アメリカは路上での犯罪が日本より多いため、護身目的のために空手を習う女性は多いです。どちらにしても、護身の心得のない女性よりも、普段から相手の攻撃から身を守る練習に励んでいる女性の方が、いざという時に、なす術を知っている可能性は高いと言えます。万一暴漢に襲われた場合でも、パニックにならず落ち着いて対応できることが期待できます。しかし、その様なことは一生起こらない方がいいので、できるだけ、前もって事が起こらぬように心掛けることも必要です。例えば、夜歩く時は、寂しい暗い近道よりも遠くても人通りの多い明るい道を歩くとか、車の陰など人が隠れやすい所を通る時は注意するとか、日常生活の中で起こる可能性のある危険を事前に防ぐ心構えを学ぶのも、空手の大きな目的だと思います。

もう一つは、精神的浄化のため。私達が生きていく間には、様々な集団に属し色々な人間と付き合わなければならないわけですが、その中には、喜びと共に苦痛を感じることも多いでしょう。接する人皆が自分と共通の価値観を持つような人であれば、何も困ることはないのですが、世の中そんなに甘くはありません。人間、皆、顔が違うように考え方も違う。それは当然のことと分かっていても、やはりストレスやフラストレーションが溜まるのですが、それ以上に辛いのは、そのストレスが吐き出されることなく心の中に蓄積されていくことではないでしょうか。そういった日常の垢を、空手の稽古に全神経を集中させて体を動かしている間に、洗い流すことができるのです。稽古の回数ではなく、週に一度でも二度でもいいから、定期的に“心の洗濯”をする機会を持つことで、日常の平常心といったものを保つことができます。私の経験から言うと、小学校の時は友人関係から、中高の時は勉強から、社会に出てからは人間関係から来るストレスが多かったのですが、いつも稽古の後は嫌な事も忘れ、すがすがしい気持ちになって、次の日への新しい力を感じられました。特に、結婚して、子供ができてからは、自分が自分でいられること、即ち平常心を保つことが家族にとってもいかに大切かを感じます。自分がいつも安定していることによって、回りの人間も安定する。そして、回りの人間が安定していると、その影響を受けて自分も又安定する、と言ったように。そうする間に、葛藤が減少し、人間関係もよくなっていくと思うのです。 女性と空手道のページへ続く)

 競技歴や心に残った試合はありますか?

前にもお話した通り、父の指導方針が精神的教育であったため、私は競技試合で勝つための空手はしていませんでした。それが、大学生になってから、いつしか十数年やっている空手の自分の実力がどれ位のものか、試したくなったのです。幸い、昭和40年後半から全日本空手道連盟を中心に空手の競技化か進み、全日本選手権なども行なわれるようになっていました。昭和52年にテレビ放映で見た全日本の女子形の演武に心が震えました。「いつしか私もこうなりたい」と。

そして、3年後の昭和55年、私は国体の京都地域予選を通過し、初めての公式試合、栃木国体(空手競技はデモ参加中)に参加していました。1回戦はサイファー。上々の出来で2回戦へ。2回戦の征遠鎮は苦戦。辛うじて通過し、決勝である3回戦へ。セイサンの形で準優勝。(2回戦を通過していなかったら、今の私はなかったかも。。。)その時の優勝者は、その後2年間私のよきライバルとなる、中山三枝選手でした。

その栃木国体が終わろうとしている時、コーチから12位の人は11月にスペインである世界大会に行きなさい、という指令が下りました。「ええ!〜」寝耳に水とはこの事!嬉しいというより意外で、また猛練習を続けなければならないのかというプレッシャーの方が大きかったです。ともあれ、第5回世界大会へのカーペットは目の前に敷かれていたのです。ちなみに、この5回世界大会から女子の部(形のみ)が設けられました。男子組手に体重の階級制ができたのもこの年からです。そういう訳で198011月、中山さんと私は日本の女子代表選手第1号としてスペインへ向かったのでした。スペイン大会では一回戦がサイファー。2回戦がセイパイ、決勝戦である3回戦は国体と同じセイサンでした。この中で最も記憶に残っているのは、1回戦のサイファー。たった1分足らずの形なのですが、我ながら物凄い集中力でした。今でも覚えているのは、形が終わった後、皆しばらく手を叩かないのです。手を叩くより会場が一瞬息を呑んでいたというか、しばらくしてからパチパチと鳴り出した拍手はだんだん大きく長く続いたのです。そして、順調に勝ち進み、結果的には私が優勝することになりました。本当にラッキーですね。予期せぬ内に世界への絨毯が敷かれ、初代女子世界チャンピオンになれたのですから。

その翌年は1回ワールドゲームス7月にあり、これも優勝。そして、同年9月は空手界にとって歴史的な国体への正式参加の時でした。みんな狙っていましたね、優勝を。だって、優勝すれば、空手の国体正式試合の初代優勝者になれるのですから。私も頑張りました。決勝戦は剛柔流最高の形と言われる“スーパーリンペー”。今でこそ若い選手達もする形ですが、当時はこの形は20歳そこそこの選手がやる形ではない、とお偉い先生方から多少顰蹙(ひんしゅく)を買いました。中山さんの泊バッサイに0.3の差をつけ、またまた国体の初代女子空手チャンプになることができました。たった2年の間に世界大会、ワールドゲームス、国体と3つの初代チャンプの座を取れのは、私の力以上に時代の流れという外的要因が目の見えぬところで働いていたように思います。

 得意形や極め技は?

剛柔流は形の数が松涛館や糸東流に比べ、少なくて、基本形を入れて12しかありません。

得意形はその時々によって変わるのですが、好きな形はセイエンチンスーパーリンペーです。セイエンチンは父の得意形でもあり、派手さを一切省いた大変地道な形です。蹴りは後ろ金蹴りがあるのみ。後は、四股立ちが多用されています。

スーパーリンペーは父からではなく、山口剛史先生から習いました。選手時代のライバル、中山三枝に勝つには、この形が必要だということで、1981年の2月に習い始めたと記憶しています。5ヶ月後にはワールドゲームスが控えていました。その間にこの形を仕上げるのは至難の業でした。剛柔流最高の形と言われるだけあって、難しかったです。言い換えれば、自分の形に中々させてくれなかったのです。気持ちが中に入り込み、その“気”と一緒に体が自然に動くようになって初めて、その形が自分のものになったと言えるのですが、その感覚を得るまでに可なりの時間と練習量が必要でした。スーパーリンペーの演武には2分必要です。そして、回転が多いので、やり慣れた場所でないと方向感覚を失ってしまいます。ですから、円形の場所などで、この形をやってみると、面白いのではないかと思います。

アメリカに来てからは、松涛館の形も覚えました。私の道場では、夫が松涛館のため2つの流派の形を生徒に教えています。四股立ちと騎馬立ち、猫足立ちと後屈立ち等の明らかに立ち方の違いがありますが、生徒はそんなものだと思って、両方練習しています。私も平安の形や十手などは大好きで、体を大胆に動かす動作は快感です。でも、気が入るという意味では、やはり小さい時からやり慣れた剛柔流の形でないと、味わえません。


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